(昼休みの始まりを告げるベルが鳴ってから、暫く。教室で小さなコンビニおにぎり一個を食べ終えた朝吹は適度に風を浴びようと屋上に出向いた。そんな彼女の手には何故かほとんど手のつけられていない一枚のプリント。中身は数学の計算問題だ。面倒臭くて最初の簡単な二問しか解かれていない。屋上で風に当たりながら問題を解くのか――この朝吹に限ってそんな殊勝な事は有り得ない。屋上の扉を開ければ、真ん中あたりに陣取ってころりとその場に寝転がった。)……起きたら背中痛くなりそう。でも寝心地はまあまあ。――よし、次の授業まで寝よう。(自らの腕を枕にして横になり、完全に惰眠を貪る体勢。共に持ってきたプリントは筆箱を重しにして、ご丁寧に「計算好きな誰かさん、私の代わりに解いておいてください」のメモ書きつき。これで起きたら魔法のようにプリントが完成しているという夢よりも有り得ない奇跡の実現を願いながら、朝吹は瞼を閉じるのだった。さて、無謀な横着計画の行方は――)
(屋上=男らしい男の行くべき所…と何処の漫画の影響なのか、彼の頭にはそんな方程式が成り立っていた。密談場所だったり決闘の話をする場面だったり、はたまたスパイが敵を狙う場と…彼が見た漫画のどの場面でも男性は男前且つワイルドで逞しい男だったりしたわけなのだ。ならばそういう男を目指すものとして訪れないわけにはいかない。それは昔から彼の日課のようなものになっていた。お昼を食べ終え早速屋上へ向かった彼。)うん、屋上に来るとなんか男らしさがアップしたーって感じするよなー。(扉を開け風を全身に感じれば満足げに一人頷いて散歩するようにふらりと歩き出せば見かけたのは一人の女子生徒。寝転がっている所を見ると寝ているのだろうか。邪魔しては悪いと思うものの、遠慮より興味が勝ってしまえば興味津々に静かに近づいて様子を伺ってみることに。瞼を閉じている所からやっぱり寝ているようだ。ふと視線を違う場所へ移すと目に入ったプリントとメモ)え!俺これまだ習ってないよ!難しいって!(自分に解いてと言われたわけでもないというのに、メモの内容を見て自分が頼まれた気になってしまい、一人パニックになりついつい大きな声を出してしまって。)
(お腹もいい具合に満たされているし、これなら気持ちよく眠れそうだ――いや、むしろあんまりにも気持ちよさ過ぎて寝過ごしてしまう事を心配しなければいけない気がする。屋上に降り注ぐ押しつけがましすぎない柔らかな日差しを浴びながら、朝吹は何にも代え難い心地好さの中で目を閉じた。この調子では寝過ごすのは必至に思えるが。だから当然のように屋上に新たな客が入ってきた事にも全く気付いていなかった。その時はまだ完全な深い眠りには入っておらず、浅い眠りと深い眠りの溝くらいをうろうろしていた様子。注意力が外に向いているわけもなければ、普段なら間違いなく気付けるだろう近付く足音の存在もぼやけて霞んでしまった。だが、しかし――突如として付近で大きな声が上がったならば、それまでのまどろみは見事に打破され、何事かと目を擦りながらぼんやり頭を持ち上げた。)……うるさ、せっかく人が寝ようとして……ん?あんた誰?(まだ眠気の残る視線を気だるげにぐるりと巡らせば、其処に居たのは一人の男子生徒。特に他人に注意も払わない性分なので、顔も名前も一致するわけがない。だが状況からしてさっきの大声の主は彼だろうと見当つければ、少しばかり悪くなった眼つきで彼を見遣った。)
(相手が心地よい眠りに就いている傍らでどうしよう、と大きな声ではないが小声とも言えない声で口にして右往左往している彼。今更ながらに自分の声で起こしてしまうのではないかと気付くも後の祭り。女子生徒はすっかり目覚めてしまったようだ。起こされた事への苦情にも聞こえる台詞を聞けば自分が睡眠を邪魔してしまったのは誰が見ても一目瞭然。)すっ……すみませんっ!俺、つい大きな声出しちゃってっ!起こすつもりはなかったんですっ!(相手の目つきを見てお怒りだと感じ、何度も何度も頭を下げてとにかく謝罪。尋ねられれば直立不動の姿勢を取り頭に手を添え、何故か勢いで敬礼のポーズを取って、)俺、一年の簑島光です!あ…あの…お姉さんは…?(不機嫌そうな相手を恐る恐る伺いつつ彼も訪ね返す。多分年上ですよね?と付け加えるのは彼のただのカンなのだけれど、何となく雰囲気で同い年には見えなかったわけで。そこでひとつわかったことが。プリントに書かれている問題が見た事ない理由。それは、学年が違うからという事。掌を拳で軽く叩き、)そっか。だから俺、問題わからなかったんだ。(誰に言うでもなく独り言のように呟いて納得したのか彼女を見ながら晴れやかに笑み零した。)
……え、何どういうこと…?…いや、起きちゃったもんは仕方ないし、別にいいんだけど…。…あ、怒ってないから。(寝起きの眼つきが思いきり悪くなってしまうのはいつものこと、だから怒っていると勘違いされたらしいとすぐに合点がいく。その誤解を解消すべく、遅ればせながら何故か敬礼をしている彼に向かって言葉を追加して。)一年、簑島くんね…了解。私?私は三年の朝吹しえな。(まだ完全に目覚めきってはいないぼんやりとした目線を彼に送り、告げられた名前を口の中で反復。恐らく忘れはしないはず。年上かという問いかけに対してはうんと頷き返す事で簡単な返事にしよう。そして、彼が口にするまですっかり自分が置いていたことはおろか存在自体を忘れ去っていた課題のプリント。そんなものあったんだと言わんばかりのやる気に乏しい表情をしながら、視線は彼からプリントへ。)ああ…うん、三年の問題だから。…誰か出来そうな人知らない?(そのうえ、何とも図々しくも他に問題を解けそうな人のアテまで尋ねる始末。よほど自力で課題をやりたくないらしい。そこまで発言したところでようやく意識がまともなくらい明瞭になってきたようで、丸い目で彼の姿を捉えた。)
あ、はい、すいませんっ!(思わずまた謝ってしまったが、彼女が怒ってないと解れば安心したように胸を撫で下ろし、緩んだ笑みを見せる。彼女の名前を脳裏で復唱し始め、復唱結果、どうもしえな先輩と呼ぼうとすると、‘え’の部分が流れてしまいがちで。ならば真ん中を省こうと決めた呼び方の許可を訪ねてみようか)あの、しーな先輩って呼んでもいいですか?(ぼんやりとした目線を向けられれば眠かったんだなぁと思い、起こしてしまった事に再び心の中で反省。彼女と同じタイミングで自分もプリントを見るも、尋ねられた途端驚いたように視線を急に彼女へと移して、)え?で…出来そうな、人…ですか?(たどたどしい口調で空を仰ぎ考えてみるが、知っているというと部活の先輩くらいで。けれど成績が良いかという事は知る由もなく。彼女の期待通りのアテがいなかった。が、せっかく頼りにしてくれているのに期待を裏切って、いません…とは言いづらい。考えに考え抜いた結果、視線を泳がせながら口にした人物は、)福沢○吉先輩!(歴史上の人物。一万円札に書かれている人だった。へらりとごまかし笑いで人差し指を立て、どうでしょう?なんて聞いてみる。よく見るギャグ漫画のようにお空のカラスがアホーと鳴いたような気がした。実際カラスはいないけれど。)
(また謝られてしまえば、謝らなくていいと繰り返すのも間抜けな堂々巡りになる気がして止めた。実のところ同じ事を二度も言う手間を省きたかったに過ぎないが。彼の苗字は有り触れた方ではないし、恐らく暫くはきちんと記憶しておく事だろう。)ああうん、いいよ何でも。しーなは初めてだけど、まあ呼びやすいように好きに呼んで。(普段よりいくらか判断力が鈍ってはいるが、たとえ目が冴えている時でも変わらぬ返事をしたであろう。もちろん彼に無茶ぶりを尋ねかけたのは駄目元に違いなかったが、当てがあれば儲けものとは思っていたようで。)いや、別に無理して引っ張り出せってほどでもないけど。知ってたら教えてってぐらいで。(とはいえ曲がりなりにも先輩権限を利用して後輩を困らせるのは本意ではない。いいよ忘れてと言おうとしたところで、彼の口から飛び出したのは何とも意外過ぎるチョイス。)……諭吉?お金渡して教えてもらえってこと?(きょとんと目を丸くし、次いでまじまじと彼を凝視する。その偉人の名で思い浮かぶのは一万円札、当然立地でも何でもない朝吹が所持ているわけもないが―どのような理由からその人名が導き出されたかについては、興味もあった。)
(名前呼びを許可された彼は嬉しそうに顔を綻ばせる。相手を名前で呼ぶ事は友達になる第一歩だと思うから。彼女がどう思っているかはわからないけれど、これで友人になれたと彼はとても満足気だ。出来そうな人――既に生きていないし、この学園にいるはずのない人物を言ったのだから、怒られるか呆れられると思っていたのに返ってきた返事が彼の予想外の問い返し。凝視されれば困ってしまい彼の頭はパニックを起こし始める。彼女と合わせることが出来ず泳ぐ視線。)え?あ、いや、その…お金を渡すとかそういう事じゃなくて……それは、一万円が勿体無いかと…。。(言葉が上手く出てこないし上手な誤魔化しも浮かんで来ない。やっと出てきた言葉が勿体無い――なんか話がズレてる気もするのは気のせいだろうか。彼女の表情を見る限り冗談で言っているとは思えず、しーな先輩って天然?…と口から出そうになったのを慌てて飲み込んだ。)ええと…ごめんなさい!…意味はないんです。俺、本当はアテなんてなくて、でもしーな先輩の力になりたかったからわかりませんとは言えなくて。何か言わないとって思って考えて咄嗟に出たのが一万円札の人物だったんです。(更に誤魔化した所で状況が悪化しかねないだけだと判断。素直に説明と謝罪の最中、段々と落ち込んでしまい、最後には肩を落としうなだれてしまった。)