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グラウンドの片隅(春は目覚めの季節――)
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(春を感じさせる穏やかな土曜日。春を告げる花の一つである乙女椿は華麗なピンクの花を咲かせているが、開花後の鮮やかなピンクから少しずつ色が薄れ少しでも茶色が見えればぽとりと花を落としてしまう。そんな乙女椿の花摘みを最近の園芸部の活動の日課のように行っていた宮元は、今日も平日と変わらず学園に登校していた。)…まだ綺麗なのにごめんね。(そう呟きながらも落ちればすぐに茶色くなってしまう花を一つ一つ丁寧に摘み、大きな袋へと入れていく。そんな時に聞こえた生物部の校内放送。一度手を止め放送に聞き耳を立て、大変、と思わず周りを見回すけれどそれらしき姿は見えない。とりあえず作業が一段落してから探してみようと花を摘む作業を再開したのだけれど――ピタリ、動きが止まった。そろりと手を出したり、引っ込めたり怪しい行動であるが、宮元にとっては重要案件だった。基本的に虫などはよく見かけるので平気だけれど、唯一苦手な相手――蜘蛛である。冬の間は少なかったけれど、春になり活発になった蜘蛛たちはあらゆるところで見掛ける機会も多い。この乙女椿も立派だからだろうか、彼らにしてみたらいい住まいだったようで、比較的大きなまあるい体格の子が宮元を見ているように感じた。その先の花を摘みたいけれど、蜘蛛が居て取れないのだ。)…どうしましょう。(困ったように眉を下げたものの、にらめっこ状態である。ふと蜘蛛がゆっくり動いた、と思ったらひゅっと何かが横切り、蜘蛛の姿がない。え、と思いゆっくり周りを見れば見事なカメレオンが、何かを咀嚼している。ピタリ、もう一度宮元の動きが止まり、今度はカメレオンとにらめっこである。)
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(春の陽気は表情の起伏に乏しい男の心も豊かにする。普段の仏頂面も心なしか穏やかに感じられるだろう。この日は図書館で大学の資料を探してから花壇の様子を見に行く予定だったが、緊急事態を告げる校内放送を聞きつけたなら資料探しは後回しにすることとして。図書館を出ると敷地内の巡回を始める。開花を始めた灯台躑躅の木々を越え、沈丁花の香りをふわりと感じながらの半ば散歩のような時間。残念なことに未だ何の貢献もできていない状態で、次に向かったのはグラウンドだ。ピンク色の控えめな花をつける乙女椿の前で立ち往生している少女が目に留まった。己もよく知るその少女は、花首から落ちてしまった乙女椿を拾っているようだが、それにしては様子が変だと思って近寄ってみれば。)鈴?どうしたんだ?(最初にそう声を掛けてみたが、少女の目線を追うと固まっていた理由がわかった。)これは…驚いた、本物は初めて見た。(少しだけ声色が明るく、嬉々としているのが感じ取れるかもしれない。ゆっくりとカメレオンへと手を伸ばす。逃げる気配は無く、足元へ手を持って行ってやれば案外簡単に飛び移ってくれた。双眸を和らげて嬉しそうな微笑みを彼女へと向けて)生物部のカメレオンだろう。鈴、よく見つけたな。お手柄だ。
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(動きも思考も停止してから長いような短いような、どれくらい時間が経っているのだろうか。実際はそれほどでもないかもしれないけれど、宮元にとってはとても長く感じられた。聞き慣れた声に名を呼ばれ、ビクリと肩が跳ね固まっていた体が解けた。まだ声は出せないままだったけれど、そろりと一歩下がれば彼の声に喜色が混じっているのを感じながらも、彼の行動を静かに見守ることに。)私も初めて見ましたけれど…。(ようやく出せた声で同意を示したものの、カメレオンが彼に飛び移るのを見て、僅かに彼を盾にするように彼の背の方へ逃げてしまったのは許して欲しいところである。嬉しそうな笑みを向けられたのなら、)…どういたしまして?最初気付かなかったので、吃驚してしまったのですが…白石先輩、平気なんですか?私だけでは生物部の方を呼んで来るまでに逃げてしまったかもしれないので、白石先輩が来てくださって助かりました。ありがとうございます。(花を世話していれば自然と虫と接する機会も多くそれほど苦手意識を感じないけれど、さすがに未知の生物は触ることも出来ない。簡単に確保してくれた彼にほっとした笑みを向け感謝を述べて。)
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(彼女の思考回路が一時的に停止していた事も、やっとのことで声を発した事も、気付いているのかいないのか。同意の言葉には「こんなに珍しい動物が身近にいたなんてな」と目を輝かせ。カメレオンを避けるように己の背後へと逃げた様子には少し不思議に感じて首を傾げたけれど、それは次に彼女が告げた言葉で理解出来たようで。)ん?ああ、そうか。鈴は花の世話をよくしているから、虫なんかも慣れてるだろうが…流石にこの大きさだと恐怖を感じるのも解らなくはない。俺は好奇心の方が勝っただけだが。まぁしかし、こちらこそ、どういたしまして?(向けられた謝辞への返答が彼女と同じく疑問形になったのは若干の遊び心もあるだろう。そう言っている間に、カメレオンが腕から肩へ移動して、そこがすっかり定位置になったようだ。逃げる気配もないのでこのまま部室に連れて行けば任務完了となるだろう。)それでだ。悪いんだが、一緒に部室まで来てくれないか?もし逃げられたら俺一人では捕獲できる自信がない。(今の所その気配はなさそうだが、捕えている訳では無いのでいつ逃げられるかは分かったものではない。己の運動神経を考えると、追いかけようとして転んでしまうのがオチだろうから、再捕獲するにも二人いたほうが確実だろう。そうすることで彼女の花がら摘みを中断させてしまう事になってしまうのだけれど。)
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(珍しい動物との声には同意を示し一つ頷いた。確かに生物部から逃げ出すことが無ければこんなに近くで見ることも無かったかもしれない、と。)虫はある程度慣れていますが…蜘蛛は苦手です。あまり見たことが無いですが、ムカデとか足の多いのは苦手かもしれません。カメレオンは大きさもそうですが、ちょっと驚いたので…。白石先輩は好奇心が強いんですね。この子も生物部が飼っているから人に慣れているのでしょうか?(彼と話していれば少しずつ落ち着きも取り戻して、カメレオンを見ながら笑みも零れるようになり、疑問形の返答には楽しそうに笑うことも出来て。彼の肩へと移動し、視線が近くなったカメレオンを見て、そういえば先ほどは蜘蛛から助けられたのだと思えば「さっきは助けていただいてありがとうございます。」と双眸を緩ませながら頭に指先を伸ばしそっと撫でて。彼からの提案には、)はい、部室までご一緒させてください。逃げてもそんなに早くはないと思いますが…二人で協力すれば大丈夫ですよね、きっと。(宮元も一人で捕まえられる自信は無いけれど、二人なら大丈夫だろうとにこりと微笑んで。彼にちょっと待って貰えば、戻ってから再開する心算で花がら摘みをしていた袋を乙女椿の後ろの目立たない場所へと移動させて、準備が整ったことを伝えるのだろう。)
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(己の知らなかった彼女の意外…とも言えぬ弱点には数度瞬き、そうかと小さく呟いて)鈴にも苦手な虫がいるのか。蜘蛛にも色々種類があるが…単純に見た目が気持ち悪い奴も多いからな。…知ってるとは思うがムカデは噛んでくるから、気を付けたほうが良いぞ。遭遇しないに越した事は無いだろう。(話している間に彼女の様子が普段の調子に戻ってきている事を感じて、小さく息を吐けば己の肩へと視線を移し)…だろうな。まさかこんなに簡単に乗ってくれるとは思わなかったが…生物部も大事に飼育してるんだろうな。(彼女の笑みに呼応するかのように、己も表情を和らげてそう告げて。カメレオンに向けたお礼の言葉と、彼女の指先が頭を撫でる様子には緩く首を傾けて。同行を頼めば快く引き受けてくれたので、助かると頷き。袋を置いて彼女の準備が整ったなら校舎へと、生物部の部室へと向かう事となるだろう。)…そういえば。さっき言ってた、助けて頂いて…ってどういう事だ?(道すがら、先程気になった彼女の言葉を問うてみて。)
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(弱点を告げれば数度瞬いた彼を驚かせたようだと思い、小さく笑って、)…一応女の子なので、って事にしておいてください。いえぐも…って言うのか、ちょっとずんぐりむっくりした子が一番苦手です。ムカデに噛まれると痛いって聞いたことはありますので、触らないように気を付けますね。(蜘蛛に関しては見るのも苦手なので、昆虫図鑑で謝ってページを開き思わず放り投げたことがあるくらいなので、名前はほぼ知らない為、特徴を述べて。ムカデに関してはこくりと頷き同意を示した。生物部の話になれば同意を示し頷いて、)肩の上に乗ったのも何時もの定位置みたいなものでしょうか?(どうやって飼っているかは分からないけれど、カメレオンを入れている何かを掃除したりするときに、肩の上に乗せているのかもしれないと、彼の肩の上で大人しくしているカメレオンを観察するかのようにじっと見つめていられるのは、彼が傍に居る事への安心感の表れで。――彼の歩調に合わせ生物部に向かう途中に問われた事には、)…さっき、花摘みをしていた時に、蜘蛛が居て手が伸ばせなくて困ってたんです。その時にこの子が蜘蛛を、その…捕食、してくれたので助かったんです。まさかカメレオンとは思わなくて、吃驚してこの子と見つめあっちゃった時に白石先輩がいらしてくださったんです。(言葉を選びながら先ほどの状況を伝え、蜘蛛には申し訳なかったですけれど、と小さく苦笑して。)
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(小さく笑いながらも返ってきた言葉、その一部分に引掛りを覚えれば不思議そうに瞬き、至極真面目な表情を浮かべては)一応って…、鈴はとても女の子らしい女の子だと思うぞ。(と、己の思った事をそのまま告げて。虫に対する見解には「そもそも家の中で蜘蛛を見るのはびっくりするからな。」「ああ、気を付けてくれ」とだけ言葉を返し頷いて。話題が生物部の、カメレオンへと移ろえば彼女の疑問に小さく頷き)そうかもな。これが習性なのか、単なる気紛れかはわからんが…俺が家に帰そうとしているのを察してるんだろうか。実は物凄く賢い奴なのかもな。(できるだけ揺れないように気を付けながらの移動なので、速度はどうしても落ちてしまうけれど、ゆっくりと確実に目的地に迫る。そんな中グラウンドでの気になる出来事を思い出して問うてみれば、一部少々云い辛そうにしながらも己の知らなかった一連の流れを教えて貰えて、成程と頷き)鈴の恩人ならぬ、恩カメレオンか。だが、鈴が蜘蛛を自分で何とかしていたら、こいつは未だグラウンドを彷徨ってたかもしれない。そうなると、こいつにとって鈴は恩人だろう。(蜘蛛には申し訳ない、という言葉には「それが自然の摂理だ」と暗に気にする事は無いと告げて。そう話している間にも歩を進めて行けば、部室は直ぐ傍に。カメレオンとのお別れももう間もなく。)
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…ありがとう、ございます。(普段から草花相手にしているので虫も平気、お洒落もさほどせずに、気にするのは日焼け位で女の子らしさの欠片もないと自分で思っていた。女の子らしいと言われたのは初めてだったので、彼が真面目な顔で告げた言葉に頬が赤くなり小さな声でお礼を述べて。虫に関しては彼らしい簡潔な答えが返ってきて気を付けます、と宮元も短く返して。カメレオンの話には、)未知の世界を楽しんでも家は恋しいのかもしれませんね。白石先輩の優しさに安心しているのかもしれません。(賢さもそうだけれど、カメレオンが落ち着くようにだろうか、揺れないように歩いている事など、彼の優しさを感じて大人しくしているのかもしれないと思い、ゆっくりと歩きながら双眸を緩めて。グラウンドでの出来事を躊躇いながらも話せば彼らしい言葉に頬が緩んで、)ふふ、恩カメレオンになりますね。蜘蛛を自分で…とは考えられませんが、乙女椿から動かなければ、いずれ見つけていたかもしれないですね。でも、私は見つけても何もできなかったので、捕まえてくれた白石先輩も、この子にとって恩人だと思いますよ?(彼の肩の上で大人しくしているカメレオン越しに彼を見上げながらにこりと楽しげに笑って。蜘蛛に関して自然の摂理と言われれば、少し気は楽になり「ありがとうございます。」と自然とお礼の言葉を述べていた。ゆっくり歩んでいても生物部の部室は近づいてくる。)そういえば、白石先輩は今日は何か用事があって来ていたんですか?この子を届けたら…帰っちゃいますか?(なんとなく彼とゆっくり歩く時間が心地よく、彼と離れがたく感じて問いかけていた。)
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(彼女の頬が赤くなった事には気づきながらも、其処に関して触れるつもりも、ましてや表情を覗き見るつもりも無く。思った事を口にしただけで感謝される覚えはないのだが、お礼の言葉が耳に届けば「ああ。」とだけ返して素直に受け取って。カメレオンの話題で、少し彼女の言葉に引掛りを感じては「…優しさ?」と不思議そうに双眸を緩める彼女へ目線を寄越して。)それは…どうだろう。他の生徒が乙女椿の所まで目を配れたかもわからないし、カメレオンも餌を探して別の場所に移動していたかも知れない。…と、言い出したらキリがないな。とにかく、見つかって良かったな。鈴が見つけた事も、俺が偶々居合わせた事も、全部含めて、運が良かった。(恩人と言われるとなんだか擽ったく感じて、総括した意見は何時になく早口で。生物部部室の手前での、彼女からの唐突な問いかけには少し間が空いて)あー……大学受験の資料を集めようと思って来たんだが…急ぎでもないからな、後日にしようと思う。(このタイミングで部室に到着しており、待機していた生物部員にカメレオンを引き渡せば謝罪と感謝で何度も頭を下げられて。「早く全部見つかると良いな」とだけ伝えて部室を出るとしよう。)…さっきの続きだが。今日はこの後中庭の花壇の様子でも見に行こうかと思っている。…鈴さえよければ、一緒に行くか?もちろん、乙女椿の花摘みは手伝う。(別れを惜しむ空気を直感的に察したのか、気付けばそんな提案をしていた。)
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白石先輩は優しいですよ。今もこの子が落ちないようにゆっくり歩いていますし…最初に声を掛けてくれたのもそうですし。(どうしたんだ?と何かあったのを察して声を掛けてくれたのだと感じたため、双眸を緩めたまま彼へと視線を移し素直にそう告げて。何時になく早口の彼の総括にはくすりと小さく笑んで、)仮説を立てたらキリがないですね。色んな幸運が重なったってことですね。私も…この子も。(自分にとっては蜘蛛から救ってくれたのがカメレオンであり、カメレオンを救ったのは彼であり、彼の運が良かったの一言に全て集約されているのは確かで、同意を示すと共に一言だけ付け足して。唐突な質問に僅かな間の後に告げられた答えに「そうですか…受験生ですもんね。」と少し残念そうな声が漏れたけれど、後半部分に驚きで双眸を瞬き彼を見上げた時に、生物部に到着した。生物部の感謝の勢いに押されながらも「見つかって良かったですね。他の子は見つかりましたか?また見掛けたらお知らせしますね。」と一言告げ、早く見つかるといいとの言葉ににこりと微笑みながら頷き同意を示して。部室を出てほっとしたのも束の間。さっきの続き、と言われ耳を傾ければ聞こえてきた提案に、)白石先輩が良くお世話している花壇ですね。もちろんご一緒させてください。え、乙女椿の手入れも手伝っていただけるんですか?…白石先輩のお時間があれば手伝っていただけると嬉しいです。(ふわりと嬉しそうに笑って。乙女椿の話には少し申し訳なさそうな声音ながらも嬉しさが滲んでいるだろう。)
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