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冬の体育館、寒すぎ…。
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(シン、と静まり返る、冷え切った体育館。そのだだっ広い体育館の隅を、巳亦は体操着姿でただ一人、猫背で俯きながらうろうろと歩いていた。今は3限と4限の間の休憩時間。3限が体育だった巳亦は、授業の終わりにふと体操着のポケットに突っ込んでおいた定期がなくなっていることに気が付き、今に至るわけだ。茶色のシンプルな定期入れの姿を時々しゃがみ込んでは床の上をひたすらに探す。)いつ落としたんだろう…走った時か…、それとも準備運動の…?(眉を下げては困ったようにぼそりと呟き、ふう、と小さく溜息をつく。4限開始まであと5分。確か次はどこのクラスも体育館を使う授業はなかったはず。)最悪サボって探すか…。(なんせ時間はギリギリだ。探し物を見つけたとして、先ほどの体育で疲れ切ってしまった巳亦には、4限に間に合うように急いで教室まで走る体力など、少しも残されていないのだ。
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それね。この室温で活動させるとかなんて嫌がらせ?
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(―くしゅん。冷えた空気を小さく震わせ、背中を丸めてポケットの中のカイロを指先で手繰り寄せた。友人とのじゃんけんに敗北し、彼女の自転車に積まれたままの忘れ物を取りに行く羽目になったのは休み時間が始まって直ぐの事。忘れ物というのも四谷が彼女から借りる予定だった文庫本一冊、放課後でも良いとは此方の弁だが、気付いてしまった以上外に放置したくないとの彼女の訴えと持ちかけられた簡単すぎる賭け事―結果は現在見ての通りである。手首に引っ掛けた紙袋を揺らしつつ、鈍い歩みで校舎へと進んで行く。その折、隣を通り過ぎるだけの体育館に人の気配。興味本位で覗き込んで見れば、小さな背中。)―授業始まるよー。(急かすわけでもない平坦な声音は、静けさ故に彼に届くだろう。彼は体操着姿とはいえ、まさか1人ぼっちで授業が行われる訳もない。靴を履き替えるまでは未だ至らず、入り口から顔を覗かせたまま問いかけよう―。)なあに、コンタクトでも落としたー?
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分かります…風邪引いたら元も子もないし…
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(もう半ば4限を諦め、急ぐ素振りもせず下を向いて体育館をうろうろしていると、突然響き渡る声。あまりにも不意だったので思わずびく、と肩を揺らし、サッと声の方へ振りむけば、姿を確認したのち)…先生かと思った、(と、サボりをほぼ決意していたものだから少し安堵。こんな寒いのに外で何してるんだろ…と彼女の姿を眉寄せ見遣っては、問いに答える。)いえ、…実は授業中に定期落としちゃったみたいで…。(このくらいの、と手で表してみせて。)
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ほーんとー。身体動かすのが風邪予防説潰そう。
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(揺れる肩を見遣り、驚かせたかと僅かに首を傾けた。背後から存在を主張した以上は致し方ない事かとは思うものの、その俊敏な動きと言葉に思わずとばかり、)ふふ、ごめんねー。時間的にもびっくりしちゃうよねえ。(面白がるように細められた瞳で彼を見つめる。あまり覚えのない風貌は恐らく後輩、教員かと勘違いしたその言葉から自主休講に慣れたタイプでもないのだろう。そんな彼が授業始まるのも厭わない様子でいるのなら、それなりの理由があるとは予想していたけれど、思った以上に重要な探し物していると聞けば、ローファー脱いで体育館内へ歩を進めるのに躊躇いはなく、)体育の時に定期持ち歩いちゃだーめー。金額的にシビアすぎるやつよ、それ。ねえ、今日何したの?(タイツに守られた足で歩み進めれば、彼に習うように腰を屈めて探し物に協力する事としよう。授業内容から捜索範囲定めようかと問いかけてー、)
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…まあ、実際本当に風邪予防にはなるみたいなんですよね…
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(あ、笑われた。と、少しだけかーっと赤くなった顔を体操着の襟に隠すように埋めた。猫背気味だった背筋を伸ばし、小さくこほんと咳払いをして、喉の調子を整えてはいざ声を出す。)いえ、…まあ、俺しかいないと思っていたから。…ええと、外で何を?(こんな時間に…と再び時計に目を遣れば先ほどから3分時間が経っていた。もう間もなくすれば授業開始のチャイムが鳴り響くだろう。自分は諦めてるから急ぐ必要はないとして、次に見せる彼女の行動には思わず目をぱち、と見開いた。ああ、こんな冷えきった場所に、冷たい床に、靴も履かずに。困ったように眉を下げ、けれど折角の好意なので気を悪くしないよう笑顔を向けて、両手でストップのポーズを取りながらやめてもらおうと善処する。)あの、大丈夫です。俺一人で探せます。…ほら、授業も始まるし、それに冷えますよ。(彼女の問いには答えずに、大丈夫だと告げて。)
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なんだって…。いや重ねて言うよ、その説は潰そう。
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(男の子の顔色については、触れない―というのは家庭内にて身につけたルール。朱色から視線を外すように体育館へ設置された時計へと目を向ければ、成る程この時間は1人で過ごせるはずだっただろう。この時間帯にこの人気のなさが示すのは、次の時間この場所を使うクラスがないということで、)そうねえ、他にいたら遅刻だよねえ。私は駐輪場までちょっとおつかいに、本借りようとしたら自転車に忘れるのよ。(手首に引っ掛けたままの紙袋を示すように体の前へ差し出せば、どう思うとでも言わんばかりに首を傾ける。さして気に留めていないことは変わらぬ曲線を描く唇が示すことだろう。踏み出した足は躊躇いなく歩を進め、停止を促す手のひらを気にもせず。理由をつけるならたった一つ、そういう気分だったから。)じゃあ探しものついでにスリッパ取ってきてー。なんかねえ、やる気出る時ってあるじゃない?テスト前の大掃除とか、寝る前の漫画とか。おねえさんそういう気分なの。(次の時間は何だっただろう―即座に浮かばぬ以上然程気の乗らない科目であることは間違いない。それより余程現状の方が興味があるといえば困っている彼に失礼だろうけれど、その制止は四谷を止めるには至らず。静かな足音立てて進んでいけば、彼の隣に並ぶのもすぐだろう。)
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